クリスマスで連想した映画の感想を書くよ

ねたばれ注意報。


三十四丁目の奇蹟



クリスマスといえばサンタクロース、サンタクロースの映画といえば三十四丁目の奇蹟ですよ(独断)! 1947年の白黒映画で、47年後の1994年にリメイクもされている。息が長いですね。サンタが本当にいるのかって話にはよくなるけど、じゃあ実際に目の前に「自分は本物のサンタだ」と主張するおじいさんが現れたらどうなるのかという話。


あらすじはこんなかんじ。大手デパートがサンタ役として雇ったおじいさん、クリス・クリングル*1は、それはもう完璧なサンタっぷりで子供達のハートをわしづかみ。親御さんたちの評判も上々、デパートの売上もうなぎのぼり。雇い主たちも最初は驚いたものの、サンタだって思い込んでいるくらいいいや利益出てるし、とそのまま雇い続けてくれます。ところが、あるいさかいが原因で、妄想癖のある危険な老人として精神病棟に隔離されてしまいそうになる。友人の若手弁護士フレッドは、クリスを庇って最高裁に異議を申し立て、舞台は州の法廷へ。審問でサンタの存在は証明できるのか? まあ無事証明するんですけど。その過程で人々の心が触れ合っていくコメディドラマです。「奇蹟」という題名ですが、ファンタジックな奇蹟は一切起こりません。クリス、普段は老人ホームに住んでるおじいちゃんだしね。サンタとしていろんな人に贈り物をするけど、彼がお金を出しているわけじゃなくてやっぱり親が買っているし。


47年の映画とリメイク版ではこの証明の方法が違っていて、47年版のほうが私のお気に入りです。裁判所のクリスのところに、住所も何も書いてない、宛名に「サンタクロースへ」って書かれただけの手紙が郵送されてくるというもの。郵便物を正しく配送しなければならない郵便省がサンタ宛の手紙を彼に届けたってことは、政府機関であるところの郵便省が正式に彼をサンタと認めたってことで、じゃあ州もそれに従わなくっちゃ、このひと本物のサンタさん! やったね!! で大団円。クリスがただの思い込みの強いおじいさんだと思って見ても、本当に本当のサンタだと思って見ても、矛盾が出ない話のつくりになっていて、結局彼がサンタかどうかはっきりとはわからないんですけど、誰かが自分をサンタだと主張して、それを信じる人がいて、その幻想のもとに何かが機能しちゃったらその人は本当に本物になりますよ、という。甘ったるい純粋な夢だけじゃなくて生臭い利害や思惑が絡んだ上でのハッピーエンドですけど、まあ夢は得てしてそういうものですよねってきちんと描かれているあたりが大好きな映画です。


グレイスランド


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クリスマス全然関係なくてむしろ夏の話なんですが、「三十四丁目の奇蹟」にそっくりだなーと思う映画が「グレイスランド」です。こっちには、自分をエルヴィス・プレスリーだと主張するおっさんが出てきます。エルヴィスは1976年8月16日に亡くなっていますが、死んだはずのエルヴィスを町で見かけただのエルヴィスと電話をしただの*2生存説にはこと欠かない人物で、この映画もそれが下敷きになっています。
エルヴィスの死後20年、彼が、もしもどこかで生きていたら。


主人公は最愛の妻を交通事故で亡くした青年で、事故の傷跡が生々しく残るキャデラックで傷心の旅をしています。そこにずかずか乗り込んできたヒッチハイカーが、エルヴィスを名乗る胡散臭いおっさん。青年はおっさんに腹を立てながらも車を走らせます。おっさんの目的地はメンフィス、グレイスランド。エルヴィスの邸宅とお墓があるロックンロールの聖地です。エルヴィスが亡くなった家に、エルヴィスの命日にエルヴィスを連れていくという、妙なロードームービー。


三十四丁目の奇蹟」のサンタはサンタそのもののルックスですが、こっちのエルヴィスは見た目がもう全然似てません。喋り方やしぐさを似せているだけ。演じているのはハーヴェイ・カイテル。ギャングの役をやらせたら世界一カッコいい、だめチンピラの役をやらせたら完璧なダメ親父になる名役者で、この映画ではどちらかというとダメ親父っぷりが発揮されていて笑っちゃうくらいエルヴィスに似てなくてひどいです。ひどいんですけど、役者ってすごいなあというか、全然似てないにもかかわらず、旅が進むにつれて、もしかしたらエルヴィスなのかもしれないと思えてきてしまう。「34丁目の奇蹟」同様、ただの嘘つきのおっさんとしても、本物としても見ることのできる話になっていて、まともに考えればエルヴィスなわけがないんですが、ジャンプスーツで熱唱するシーンや幼馴染と話すシーンがなぜかやたらと胸を打つ。馬鹿げたことを信じてみたいという願望、例えばエルヴィスにまだ生きていてほしいというような欲望を、彼の存在が肯定してくれるように思います。主人公の青年の場合にはそれが「大切な人を喪った悲しみからの開放」であり、キャデラックの傷が治るように彼も救われていくんですけど、その頃にはもう、おっさんの正体なんてどうでもよくなってる。彼が本物のエルヴィスだろうが、元ビジネスマンだろうが、そんなのはどっちでもよくて、彼と関わった人たちがなにを思ったか、どう変化したかが一番大切なのだよなあ。


スモーク


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ハーヴェイ・カイテル繋がりで。


ブルックリンの街角の煙草屋に集う人たちの人間模様を淡々と追いかける映画です。ハーヴェイが演じるのは、煙草屋の店主オーギー・レン。脚本を小説家が書いたからか、映画なのに章立てで物語が進んでいく面白いつくりで、ここで取り上げたいのは一番最後の章の「オーギー」、この章だけ原作があります。原作の題名は「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」。新潮文庫で読むことができます。


スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス (新潮文庫)

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私はこの話をオーギー・レンから聞いた。オーギーはこの話の中で、あまりいい役を演じていない。少なくとも、オーギー本人にとって願ってもない役柄とは言いがたい。そんなわけでオーギーからは、俺の本名は出さないでくれよな、と頼まれている。それをべつにすれば、落ちていた財布のことも、盲目の女性のことも、クリスマス・ディナーのことも、すべて彼が私に話してくれた通りである。

という出だしで始まるこの短編は、1990年のクリスマス、ニューヨーク・タイムスの特集欄に掲載されたものです。「私」はポールという名前の小説家で(そして作者の名前もポールです)、クリスマス向けの短編をニューヨーク・タイムスに頼まれたもののネタに困っている。それを行きつけの煙草屋の店主オーギーに話したところ、彼は昼食をおごる代わりにクリスマスの体験談を披露してくれる。そういう筋書き。「最高のクリスマス・ストーリーを聞かせてやるよ。それも、隅から隅まで実話って保証つきのやつだ」
話を聞き終わったポールは、オーギーが意味ありげに笑っているのを見て、彼が作り話をしたんじゃないかと疑います。オーギーを問い詰めようとして、無駄なことだと気付いてやめる。
「まんまと罠にはまった私が、彼の話を信じた――大切なのはそのことだけだ。誰か一人でも信じる人間がいるかぎり、本当でない物語などありはしないのだ」


映画では、このシーンは10分ほどの驚異のロングテイクで、クリスマス・ストーリーを語るハーヴェイだけを定点カメラがひたすら撮り続け、まるで自分が彼と一緒にレストランにいて向かい合わせに座っているような、実際に目の前で話を聞いているような気分になります。しかもハーヴェイの語りは映像を見るように色鮮やかで、彼しか画面に映っていなかったことにしばらく気がつかなかった。名演です。


ともあれ、内容は人を食ったような話です。どこからが作り話なのかわからない。ハーヴェイのニヤニヤ顔に、煙に巻かれたような気分になります。ニューヨーク・タイムスでこの話を読んだ人たちはもっと妙な心地がしたろうなあ。まず「私」が作者のポール・オースター自身なのか不明だし*3、オーギーが実在の人物なのかもわからないし、オーギーの話も大嘘なのかもしれないし。しかもこのクリスマス・ストーリーというのが、盗みを働いたり嘘をついたり、決して正しい行いをしていないのになぜか善行に思えるという、奇妙な話です。嘘も本当も、いいことも悪いことも、盗むことも贈ることも、ねじくれまがってごっちゃになってそこにある。


世の中の大抵の話は、良くも悪くもオーギーの話のようにあやふやな煙みたいです。たまに煙がうまい具合に漂うことがあって、煙なのにすごくきれいに見えたりする。そのせいで詐欺や諍いが起きたりもしますけど。みんなが特別だと思っている日にはたくさんの煙が立ち昇っていて、うっかりするとどこもかしこもきれいな世界に見えて楽しいです。そんな一日はいつでもいい、サンタが誰でもいいようにいつでもよくて、エルヴィスの命日でもお正月でも私の誕生日でも構わないんですけど、クリスマスという日はより多くの人が特別だと思い込んで動くものだから、変なものが売れまくったり、けったいな電飾が街を照らしていたり、普段より早く帰ったり、忙殺されたり、実際に非日常的で、わくわくしたりぐったりしたり、べらぼうに愛おしかったり、世界中が憎らしかったりいろいろです。折角なのでいい一日だといいですねと思います。メリークリスマス。


*1:ドイツ語でサンタクロースの意

*2:電話したって言っているのはジョン・レノンです。ドラックの幻覚でしょうけど。

*3:ポール・オースターは、後にインタビューに答えて、作中の「ポール」は架空の人物であると明言しています。