短編映画「With a little patience」の感想

自分がなにをどう感じたのか、考えたくないと思った。医学部の不正入試事件の記事で、実際にデータに手を加えていた担当者の証言を読んだときのことだ。

"男女で合否判定差「慣行で機械的に」 順天堂大の担当者:朝日新聞デジタル"

男女で合否判定に差をつけた疑いが持たれている順天堂大(東京)の担当者が「慣行で、機械的にやっていた」と説明していることが、関係者の話でわかった。
(中略)
担当者は「最近決めたわけではなく、長年引き継がれていた」と話しているという。

分かる、と思った。理解できると思ってしまった。少しでも考えてみれば予測できたことだった。構造に組み込まれた差別には、明確な敵は存在しない。

担当者の立場を自分に引いてみるのは簡単で、巻き込まれる自分をありありと想像できた。きっと前任者から、当然のように引き継がれたんだろう。秘伝のタレと化した手続きを。なにを意図しているのかも、そもそも意味があるのかも分からないような、煩雑な作業の数々を。呑み込みの悪い私は、もたもた手間取って叱られながら、とにかく実務を進めるに違いない。

作業の中に混じった「それ」の意図に気付く頃には、私は立派な「担当者」だ。それから? それから声を上げられるのか。無理だ。私には無理だ。せいぜい黙ってすごすご退職するのが関の山だ。

私はこの「担当者」に同情しかけて、同情しかけている自分に気が付いて、ものすごく嫌な気持ちになった。分かるな。同情するな。一緒になるな、こんなものと一緒になるな。思わず目をつむりたくなって、しかしそうやって見ないふりをする行為そのものに刃を突き立てる映画があったことを思い出した。

 

短編映画「With a Little Patience」は、そうした自己保身と良心の鈍麻の先に待っているもの、そのシステムを実際に動かしているのが私たちと同類の人間であることを暴き立てる、たった14分の劇薬だ。

ハンガリー人の監督ネメシュ・ラースローは、見る者へ与える情報をぎりぎりまで削ぎ落とし、磨き上げて、この短い時間に巧妙に配置した。その仕掛けたちが、私の頭の中で不愉快な音を鳴らす。紙とペンとタイプライターの音、淡々と進む事務作業の音だ。

 

私は最初、ほとんど何も知らないままこの映画を見た。退屈な映画だと思いながら見た。 

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退屈だった、そのことに打ちのめされるなんて思わなかった。登場人物たちにとって、ここは日常の職場であって、特別なことは何も起きていない。彼らの平坦な感情が、最初は退屈に思えたのに。

彼女が淡々と「処理」していた書類が何か。軍の上官らしい彼からこっそり手渡されたブローチは、「誰から」「どのように」手に入れたものなのか。

極端に情報が限られた画面から読み取れるものは少ない。大ぶりのブローチは、ラッピングされず、裸のまま手渡される。無造作に渡されるのが惜しいほど高価に見えるのに、彼らはそれには無頓着に見える。

彼らが明らかに意識しているのは、同僚の視線だけだ。そのほかへの気遣いは、画面からは読み取れない。

 

彼女が仕事に集中し始めると、唐突に穏やかな音楽が流れ出す。場違いにも聞こえるこの音楽は、彼女の気が散ったり、作業の手が止まったりするのに合わせて、引っかかるように止まる。つまり、この音楽は、彼女の頭の中でだけ流れているのだ。

しばらくすると屋外から耳障りな音が立て続けに聞こえてきて、彼女の音楽は何度も止まる。事務仕事にはさぞかし邪魔だろう。彼女は窓を閉めにいく。

 

この映画の主題である「With a little patience」の、「patience」が意味するものの種明かしがされたとき、そこまで退屈に思われてきたものの全てが一気に牙を剥いた。お前が、私が、退屈に思って見過ごしてきたものは何だ。彼女が窓を閉めて切断したものは何だ。

彼女はしばらくの間だけ無関心を止め、窓の外の風景に心を揺らしたように見える。それで? だから何だというのか。

 

彼女は窓の外から目をそらす。ふさぎ切れなかった耳のために、窓を閉めて鍵をかける。何も変わらない。何ごともなく事務処理は進む。それをこの映画は静かに糾弾する。

彼女に共感してはならない。こんなものに加担してはならない。お前にもあれが見えただろう。あれが聞こえたはずだろう。

それでもお前は、お前も、その窓を、閉めるんだろう?