【旅日記】キリング・フィールド (1)


【目次】


キリング・フィールドと呼ばれる場所が、カンボジアの各地にある。
ポル・ポト時代に処刑場だった場所だ。


同名の映画がある。実話を基にしているという。学生時代、あるジャーナリストさんが特別講師としていらして、カンボジア取材の体験談を話してくださったことがある。カンボジアの場所さえよく知らない私たちに、こういう映画がありますよ、と紹介したうえで、カンボジアの苦しみは大量虐殺が起こったことだけではないと力説した。
人命と共に心の礎も破壊されてしまった、そのことが悲劇なのだと。


「――あの国では、一度、文化が断絶したんです。
芸能も職能も、お箸の持ち方さえ継承されなかった
空白の数年間が、70年代の終わりにあったんですよ。」


映画は未だに見ていない。授業を受けたあと気になって近所のツタヤで何度も手に取って、でもどうしてもカウンターに持っていけなかった。見るべきだと思う、けど、見たくない。今回の旅行の出発前にも見なきゃ見なきゃと思ったけれど、やっぱり駄目だった。


革命政権は短かった。3年8ヶ月20日間。
死者数は数え切れない。諸説あって、そのどれもがものすごい数だ。
キリング・フィールドだけじゃない、カンボジアのそこいらじゅうで、たくさんの人が命を落とした。暴行され、病に倒れ、飢えて亡くなった。私が生まれるちょっと前の話だ。たった30年前の話だ。その痛みは、地雷や病気やいろいろなものに姿を変えて、今現在も続いている。



シェムリアップのキリングフィールドは、アンコールワットへ向かう道の途中にあって、納骨堂とお寺があると聞いていた。私もタカハシもその場所のことはずっと気にかかっていて、近くを通ったときには、この辺かな、なんて話をした。
「行こう」とはなかなか言えなかった。あっくん(トゥクトゥクの運転手、30歳)に頼めばすぐに連れて行ってくれるのは分かっていたけれど、縁もゆかりもない私たちが突然「キリング・フィールドに行きたい」と言うのは、なんだか不躾で、あっくんに対して失礼であるように思われた。


普段の会話でも、私とタカハシは当時の話に触れないように気をつけていた。奥さんや子供の話を尋ねることがあっても、ご両親の話はこちらからは聞かない、とか、そんなふうに。


この国で生まれ育った人たち、特に私よりも上の世代の人たちは、何らかの事情を抱えているに違いなく、そこに触れるには私たちは知らないことが多すぎた。



私たちがあっくんと当時の話をしたのは、旅行五日目の夜、はじめて三人でご飯を囲んだときだった。
チュナン・ダイ(チュナン=鍋、ダイ=土、で、土鍋料理。美味)をつつきながら、彼は自分から、ご両親の話や、彼の小さい頃の話をしてくれた。世間話をするときと同じ調子で、でもちょっと違うまなざしで、彼は喋った。
お父様のご職業のこと。
お母様が彼を身篭ったのはかの政権の最後の頃で、とても大変だったということ。
想像がつかない話だった。私たちが出会った穏やかな人たちと、今聞いている話の過酷さが結びつかなかった。
しばらく話した頃、あっくんはふっと口をつぐんだ。それから、チラッと笑って手を振って、彼の個人的な話はそれぎりになった。


改めて、私たち3人が同世代であることを思った。その親しみと、へだたりとを。へだたりは深く、だからこそ、こうして同じ鍋を囲んでいる時間を、得がたく嬉しいものだと思った。


この街にもキリング・フィールドがあるのは知っているかとあっくんが聞くので、この近くでしょう知っているよ、とタカハシが答えた。それから何気ないふうに、明日行けるかなと続けた。
あっくんはいいよと軽く頷いて、「泣いちゃう人もいるんだよー」って泣き真似しておどけた。


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