豆大福

今年ではない夏の日の話。

                          
◇◇◇◇◇


その夏、母が入院したのは、緩やかな坂の途中にある大きな病院だった。じっとりと蒸す空気をかき分け坂を上り、駐車場に並ぶ救急車の脇を抜けたところに、面会者用の入り口があった。エントランスはひんやりしていて、やけに遅いエレベーターを待つ間に汗が引いた。


母の病室は6人部屋で、一番奥の窓際が母のベッドだった。手術前日、私が仕事帰りに顔を出すと、母は、「特に問題がなければ、これだけしか切らないで済むんですって」と人差し指と親指で大きさを示してみせた。おへその周りを小さくZの形に切開するだけで手術ができるのだという。入院期間も1週間と短い。
「前とはずいぶん違うわねえ。」
前、とは、20年程前に受けたがん手術のことだ。そのときは、組織を大きく切除したので、機能障害と大きな手術痕とが残ったのだった。「今回も、臓器丸ごと切除するんだし、ま、何かしら残るんでしょうけど」母は軽く言い、でもね、傷はこんなにちっちゃくて済むのよ、とゆっくりと確かめるように呟いた。


タカハシが差し入れに本を持ってきた。おいしそうな和菓子の写真がたくさん載っている本だ。「食事制限があるでしょうから、食べたくなっても食べられないと思って。嫌がらせです」といたずらっぽく笑いながらタカハシが本を手渡すと、母は「ふふん、残念でした。手術の次の日から、何でも食べられますもんね」と威張ってみせた。



手術当日は、父が休みを取って病院に行った。妹の弁によると、父はその日、朝からそわそわし通しで、出勤前で慌てる妹にこまごまと話しかけ、煩わしいったらなかったそうだ。「本屋さんに寄ってから行こうかな」「花の水やりは帰ってからでいいかな」「もう行ったら早いかな」。そんなに早く行かなくってもいいんじゃない、まあ行くんだろうけどさ、と妹は適当に返事をして、慌ただしく職場に向かったという。案の定、父は手術開始予定時刻よりかなり早く病院に到着した。待ち時間のお供に文庫本を用意し、病院の近所の神社に手を合わせ、満を持して病室に行くと、しかし、母の姿は無かった。急に予定が変わって手術が早まったのだ。父は待合室で待った。父のことだから、ただただじいっと待ちつづけたのだろうと思う。せっかくの本は読めたのかどうか。2時間もしないで手術は終わり、父は担当医から、手術が滞りなく終了したことを知らされた。


手術が終わったら携帯にメールちょうだいね、と前日私にお願いされていた父は、「メールは苦手だな、電話がいいなあ」と言っていたにも関わらず、すぐさまメールを打ってくれたようだ。その日の昼休み、私の携帯には、既に父からのメールが届いていた。しかも、なんと、凝ったことにデコメールだ。表示画面にピンク色のハートがひらひら飛び交っている。とはいえ本文のほうはいつも通りのつたなさで、
「成功 説明 受ける 良い」
という、電報の香り漂うものだったのだけれど。


私が電話をかけると、父はまず、手術前に母と行き違いになった顛末を話しはじめた。「早めに病院に行ったのに、お母さんの顔が見られなくってなあ、あはは」と、やけに陽気である。懸念はまだ残るものの、ひとまず手術が無事に終わって、肩の荷が一気に下りたのだろう。父の様子につられて私もほっとする。
切開、1カ所で済んだってさ。よかったよかった。組織の癒着、無かったんだってさ。よかったよかった。お父さんなあ、せっかく早く行ったのに、手術前にお母さんに会えなくってなあ。おとうさん、それさっきも聞いたよ。そうだったなあ。わはははは。


仕事帰りに私も病院に向かった。母は麻酔が残っているのか、あまり目が開かなかったけれど、話は出来た。母、私の顔を見て、掠れた声で何を言うかと思えば、「お父さんね、早く来てくれたのに、お母さん先に手術室に行っちゃったのよ」。おとうさんも同じことを言っていたよと妹が口を挟むと、母は、あらそう、と可笑しそうにした。
妹がベッド脇の引き出しから手術承諾書を取り出した。担当医師直筆の説明が書いてあるのだが、達筆すぎて読みにくい。指を指してひとつずつ解読した。手書きの絵もあった。バッテンのおへそのうえに「Z」が書いてあって、落書きみたいでユーモラスだ。Z型開腹、と添え書きがある。「でべその人の切開は難しいのかな」と妹が首をかしげた。うちの母のへそはやりやすかったですかって聞いてみたいね、と話していたら、酸素マスク越しに母のくぐもった笑い声が漏れた。


その日はワールドカップの日本戦がある夜で、父と妹は睡眠時間を削って観戦するのだと意気込んでおり、母は「はいはい、お仕事は大丈夫なのかしらね」と呆れて、じゃあもう帰りなさい、と言った。



仕事帰りのお見舞いはお腹が空く。次の日は、途中の和菓子屋さんで色々と買い込んでから病室に向かった。タカハシの差し入れた本に私も刺激されたのだ。母や父も食べるかもしれないと思って多めに買いこんだ。草餅、豆餅、水ようかん、葛饅頭、豆大福。病室の母は体を起こして本を読んでいて、背中に痛み止めの入ったボトルをぶら下げている以外はいつもと変わらない様子だった。もうそれほど痛まないのよ、でも食欲はあまりないの、と言うので、じゃあ和菓子は食べない方がいいね、となった。それでも私が横で食べていたら、ひとくちだけ、と豆大福を食べた。後から来た父は、和菓子好きにも関わらず要らないと言い、ぐいぐいと目をこすった。眠そうだ。夜中にサッカーなんて見ているからよ、もう、大丈夫なの? と母に気遣われて、どちらが見舞い客だかわからない。



その日、母は吐き気がひどく、食べたものは吐き戻してしまったのだと後から聞いた。
数日で母の頬は目に見えて痩けた。



翌日。母は食欲が出てきたものの、夕食は半分しか進まなかった。「おかあさん、入院してから、あごのあたりがすっきりしたねえ」と声をかけると、母は、「そうでしょう痩せたでしょう」と頷いてから、きらりと目を光らせて、とっておきの話をする顔になった。


「今朝、お父さんが来たときに聞いたのよ、
『痩せたでしょう』って。
そしたらね、お父さんったら、自分が褒められたんだと勘違いして、
『おっ、そうか?』
なんて自分のあごをさすって喜んだのよ。まったく、もう、お父さんらしいでしょう。」


父のことだから、「痩せたかなあ、最近、暑かったしなあ」と、嬉しそうにあごのラインを確認していたに違いない。父のへにゃへにゃと相好を崩した顔が目に浮かんで、私たちは堪えきれずに大笑いをした。まわりのベッドの患者さんに迷惑にならないように、声を殺して「うくくくく」と笑うと、ふるふると肩が震えて、母はそれが傷に障ったのか、手のひらでそっと下腹部を押さえると、今度は少し気をつけて、笑い足りないぶんを笑った。


    
                      
◇◇◇◇◇


追記。
その後、母は回復してすっかり元気です。よかったよかった。


さらに追記。
今年の夏は、私が同じ病院で手術を受ける予定です。頑張るね。頑張るよ。とはいえ実際に頑張るのはお医者さんや面倒を見てくれる家族であって、私は寝ているだけであろう。当人は気楽なもんである。
病状はたいしたことないのです。よかったよかった。手術が終われば体調は今より楽になるはず。早く元気になりたーい(妖怪人間ベムのものまね)。

間違い電話

さっき携帯に電話がかかってきて、出てみたら実家の父だった。「あれー」とか言っている。あれーはこっちのセリフだ。こんなときに電話してきたら何かと思うじゃないか。


「どうしたのお父さん」
「いや、今日ね、会社で携帯電話の番号を教えあうことになって、ほら緊急時の連絡用にね。でもお父さん自分の番号がわからなくて困っちゃったんだよねー。それで表示方法を覚えておこうと思っていじっていたら窪橋に電話がかかっちゃったみたいーフハハハハー、あ、元気?」
「元気ですよ。そもそも私たち、おとつい会ったばっかりですよ」
「そうか。うん。よかったねえ。じゃあお母さんに代わりまーす」
「えっ? なんで?」
「もしもーしお母さんでーす。なに? どうしたの?」
「ええと……どうしたもこうしたもお父さんが」
「んー?」


そういうわけで窪橋(@東京都)とその周りは元気です。


あんまり強くない人間なので、ぐったりすることもありまして、
普段以上に働いている人たちは素晴らしいねありがたいねえ、
そしてここより北の人たちの心痛はいかばかりか、と思っています。
いま眠れない人たちが、あったかい布団でゆっくり眠れる日々が早く戻りますように。



あとTwitterの再録ですが、もうひとつの間違い電話↓

私のiphoneに見知らぬ番号の国際電話が。英語でカタオカはいるかと聞かれたので、間違い電話ですよと電話を切った。またすぐに着信。カタオカじゃないよと言うとI knowと言う。おまえんとこの周りは大丈夫かというようなことを言っている。私は大丈夫です。ありがとう知らない人。

http://twitter.com/#!/kubohashi/status/46509764682850304

国番号は39だったのでイタリアの人からだったようです。
カタオカさんと連絡取れたかな。取れているといいな。

にんじんβ

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タカハシの両親は、私たちが帰省するたびに大量の野菜を持たせてくれる。食べきるのに苦労するくらいの量だ。あまりの量にびっくりしている私に気がついたのか、最近は、野菜を詰める前にどれくらい要るのか声をかけてくれるようにもなった。


「大根は何本入れようかね」
「2本にしようかな」
「じゃあ、これは短いから4本入れておくよ」


「みかん食べるでしょう」
「うん、この袋に詰めていってもいい?」
「それは小さいからこっちの大きい袋にしなさい」


「にんじんはどれくらいにしようね」
「ありがとう、少しで大丈夫」
「少し? 20本くらいか」
「いやいやいや」
「なんだ30本か」


タカハシの両親は、私たちが遊びに行くと、いつも大量の野菜を持たせてくれる。私たちが食べきれないことも知っていて、量を控えめにもしてくれる。冒頭の写真は、そうして選りすぐられた野菜たちの中でもひときわの威容を誇っていたにんじんである。私たちは彼をにんじんβと名付け、その非凡な姿を称えたのち、カレーにして腹に収めた。

MacBook Air が当たるキャンペーンに応募するのうた


いま、はてなでは、「MacBook Air 11インチ欲しい!」と記事に書くだけで最先端のノートパソコンが当たるという太っ腹なキャンペーンを展開しているそうなので、私も応募したいと思います。ついでに歌を歌いたいと思います。


ふんにゃがぱっぱー
ふんにゃがぱっぱー
ふんにゃがぱっぱっぱー ハァイ!


MacBook Air 11インチ欲しい! (欲しい!)
MacBook Air 11インチ欲しい! (欲しい!)


もしもMacBook Airが当たったらー
たくさんブログを書きますよー
週1で更新しちゃうー
くらいのー
意気込みでー
意気込みでねー


もしもMacBook Airが当たったらー
とっても大切にいたしますー
ネット見ながらお菓子食べたりとかー
しないー
とはいいきれないけどー
こぼしても掃除するー
と思うー


もしもMacBook Airが当たったらー
はてなフリークになりますよー
今まで以上になりますよー
twitterやめてハイクひとすじにー
なるー
いやこれは言い過ぎたー
さすがにこれは言い過ぎたねー


この意気込みを生かすにはー
MacBook Air 11インチ欲しい!
心機一転生かすにはー
MacBook Air 11インチ欲しい!


2011年は新しいマシンと (マシンとー)
いっしょがいい! (いっしょがいい!)


MacBook Air 11インチ欲しい!

こんな初詣だった

 
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おおみそかの よる。
線路にそって ゆく。




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文房具屋の古い看板



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消防署は眩しい



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寒い寒いと並ぶ行列



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暖を取る警備の人たち



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バナナチョコは気付かない間にずいぶん値上がりした



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よい年になりますように。
よい年になりますように。
よい年になりますように。




◇◇◇◇◇



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あけまして おめでとうございます。
本年も よろしくおねがいいたします。
 
 

クリスマスで連想した映画の感想を書くよ

ねたばれ注意報。


三十四丁目の奇蹟



クリスマスといえばサンタクロース、サンタクロースの映画といえば三十四丁目の奇蹟ですよ(独断)! 1947年の白黒映画で、47年後の1994年にリメイクもされている。息が長いですね。サンタが本当にいるのかって話にはよくなるけど、じゃあ実際に目の前に「自分は本物のサンタだ」と主張するおじいさんが現れたらどうなるのかという話。


あらすじはこんなかんじ。大手デパートがサンタ役として雇ったおじいさん、クリス・クリングル*1は、それはもう完璧なサンタっぷりで子供達のハートをわしづかみ。親御さんたちの評判も上々、デパートの売上もうなぎのぼり。雇い主たちも最初は驚いたものの、サンタだって思い込んでいるくらいいいや利益出てるし、とそのまま雇い続けてくれます。ところが、あるいさかいが原因で、妄想癖のある危険な老人として精神病棟に隔離されてしまいそうになる。友人の若手弁護士フレッドは、クリスを庇って最高裁に異議を申し立て、舞台は州の法廷へ。審問でサンタの存在は証明できるのか? まあ無事証明するんですけど。その過程で人々の心が触れ合っていくコメディドラマです。「奇蹟」という題名ですが、ファンタジックな奇蹟は一切起こりません。クリス、普段は老人ホームに住んでるおじいちゃんだしね。サンタとしていろんな人に贈り物をするけど、彼がお金を出しているわけじゃなくてやっぱり親が買っているし。


47年の映画とリメイク版ではこの証明の方法が違っていて、47年版のほうが私のお気に入りです。裁判所のクリスのところに、住所も何も書いてない、宛名に「サンタクロースへ」って書かれただけの手紙が郵送されてくるというもの。郵便物を正しく配送しなければならない郵便省がサンタ宛の手紙を彼に届けたってことは、政府機関であるところの郵便省が正式に彼をサンタと認めたってことで、じゃあ州もそれに従わなくっちゃ、このひと本物のサンタさん! やったね!! で大団円。クリスがただの思い込みの強いおじいさんだと思って見ても、本当に本当のサンタだと思って見ても、矛盾が出ない話のつくりになっていて、結局彼がサンタかどうかはっきりとはわからないんですけど、誰かが自分をサンタだと主張して、それを信じる人がいて、その幻想のもとに何かが機能しちゃったらその人は本当に本物になりますよ、という。甘ったるい純粋な夢だけじゃなくて生臭い利害や思惑が絡んだ上でのハッピーエンドですけど、まあ夢は得てしてそういうものですよねってきちんと描かれているあたりが大好きな映画です。


グレイスランド


グレイスランド [DVD]

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クリスマス全然関係なくてむしろ夏の話なんですが、「三十四丁目の奇蹟」にそっくりだなーと思う映画が「グレイスランド」です。こっちには、自分をエルヴィス・プレスリーだと主張するおっさんが出てきます。エルヴィスは1976年8月16日に亡くなっていますが、死んだはずのエルヴィスを町で見かけただのエルヴィスと電話をしただの*2生存説にはこと欠かない人物で、この映画もそれが下敷きになっています。
エルヴィスの死後20年、彼が、もしもどこかで生きていたら。


主人公は最愛の妻を交通事故で亡くした青年で、事故の傷跡が生々しく残るキャデラックで傷心の旅をしています。そこにずかずか乗り込んできたヒッチハイカーが、エルヴィスを名乗る胡散臭いおっさん。青年はおっさんに腹を立てながらも車を走らせます。おっさんの目的地はメンフィス、グレイスランド。エルヴィスの邸宅とお墓があるロックンロールの聖地です。エルヴィスが亡くなった家に、エルヴィスの命日にエルヴィスを連れていくという、妙なロードームービー。


三十四丁目の奇蹟」のサンタはサンタそのもののルックスですが、こっちのエルヴィスは見た目がもう全然似てません。喋り方やしぐさを似せているだけ。演じているのはハーヴェイ・カイテル。ギャングの役をやらせたら世界一カッコいい、だめチンピラの役をやらせたら完璧なダメ親父になる名役者で、この映画ではどちらかというとダメ親父っぷりが発揮されていて笑っちゃうくらいエルヴィスに似てなくてひどいです。ひどいんですけど、役者ってすごいなあというか、全然似てないにもかかわらず、旅が進むにつれて、もしかしたらエルヴィスなのかもしれないと思えてきてしまう。「34丁目の奇蹟」同様、ただの嘘つきのおっさんとしても、本物としても見ることのできる話になっていて、まともに考えればエルヴィスなわけがないんですが、ジャンプスーツで熱唱するシーンや幼馴染と話すシーンがなぜかやたらと胸を打つ。馬鹿げたことを信じてみたいという願望、例えばエルヴィスにまだ生きていてほしいというような欲望を、彼の存在が肯定してくれるように思います。主人公の青年の場合にはそれが「大切な人を喪った悲しみからの開放」であり、キャデラックの傷が治るように彼も救われていくんですけど、その頃にはもう、おっさんの正体なんてどうでもよくなってる。彼が本物のエルヴィスだろうが、元ビジネスマンだろうが、そんなのはどっちでもよくて、彼と関わった人たちがなにを思ったか、どう変化したかが一番大切なのだよなあ。


スモーク


SMOKE [DVD]

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ハーヴェイ・カイテル繋がりで。


ブルックリンの街角の煙草屋に集う人たちの人間模様を淡々と追いかける映画です。ハーヴェイが演じるのは、煙草屋の店主オーギー・レン。脚本を小説家が書いたからか、映画なのに章立てで物語が進んでいく面白いつくりで、ここで取り上げたいのは一番最後の章の「オーギー」、この章だけ原作があります。原作の題名は「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」。新潮文庫で読むことができます。


スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス (新潮文庫)

スモーク&ブルー・イン・ザ・フェイス (新潮文庫)

私はこの話をオーギー・レンから聞いた。オーギーはこの話の中で、あまりいい役を演じていない。少なくとも、オーギー本人にとって願ってもない役柄とは言いがたい。そんなわけでオーギーからは、俺の本名は出さないでくれよな、と頼まれている。それをべつにすれば、落ちていた財布のことも、盲目の女性のことも、クリスマス・ディナーのことも、すべて彼が私に話してくれた通りである。

という出だしで始まるこの短編は、1990年のクリスマス、ニューヨーク・タイムスの特集欄に掲載されたものです。「私」はポールという名前の小説家で(そして作者の名前もポールです)、クリスマス向けの短編をニューヨーク・タイムスに頼まれたもののネタに困っている。それを行きつけの煙草屋の店主オーギーに話したところ、彼は昼食をおごる代わりにクリスマスの体験談を披露してくれる。そういう筋書き。「最高のクリスマス・ストーリーを聞かせてやるよ。それも、隅から隅まで実話って保証つきのやつだ」
話を聞き終わったポールは、オーギーが意味ありげに笑っているのを見て、彼が作り話をしたんじゃないかと疑います。オーギーを問い詰めようとして、無駄なことだと気付いてやめる。
「まんまと罠にはまった私が、彼の話を信じた――大切なのはそのことだけだ。誰か一人でも信じる人間がいるかぎり、本当でない物語などありはしないのだ」


映画では、このシーンは10分ほどの驚異のロングテイクで、クリスマス・ストーリーを語るハーヴェイだけを定点カメラがひたすら撮り続け、まるで自分が彼と一緒にレストランにいて向かい合わせに座っているような、実際に目の前で話を聞いているような気分になります。しかもハーヴェイの語りは映像を見るように色鮮やかで、彼しか画面に映っていなかったことにしばらく気がつかなかった。名演です。


ともあれ、内容は人を食ったような話です。どこからが作り話なのかわからない。ハーヴェイのニヤニヤ顔に、煙に巻かれたような気分になります。ニューヨーク・タイムスでこの話を読んだ人たちはもっと妙な心地がしたろうなあ。まず「私」が作者のポール・オースター自身なのか不明だし*3、オーギーが実在の人物なのかもわからないし、オーギーの話も大嘘なのかもしれないし。しかもこのクリスマス・ストーリーというのが、盗みを働いたり嘘をついたり、決して正しい行いをしていないのになぜか善行に思えるという、奇妙な話です。嘘も本当も、いいことも悪いことも、盗むことも贈ることも、ねじくれまがってごっちゃになってそこにある。


世の中の大抵の話は、良くも悪くもオーギーの話のようにあやふやな煙みたいです。たまに煙がうまい具合に漂うことがあって、煙なのにすごくきれいに見えたりする。そのせいで詐欺や諍いが起きたりもしますけど。みんなが特別だと思っている日にはたくさんの煙が立ち昇っていて、うっかりするとどこもかしこもきれいな世界に見えて楽しいです。そんな一日はいつでもいい、サンタが誰でもいいようにいつでもよくて、エルヴィスの命日でもお正月でも私の誕生日でも構わないんですけど、クリスマスという日はより多くの人が特別だと思い込んで動くものだから、変なものが売れまくったり、けったいな電飾が街を照らしていたり、普段より早く帰ったり、忙殺されたり、実際に非日常的で、わくわくしたりぐったりしたり、べらぼうに愛おしかったり、世界中が憎らしかったりいろいろです。折角なのでいい一日だといいですねと思います。メリークリスマス。


*1:ドイツ語でサンタクロースの意

*2:電話したって言っているのはジョン・レノンです。ドラックの幻覚でしょうけど。

*3:ポール・オースターは、後にインタビューに答えて、作中の「ポール」は架空の人物であると明言しています。

みかんA

PC052055


みかんAは糖度13度で、少々割高であった。大衆みかんBCDEなどとは一味違う包装で燦然と店先に並んでいたものだった。みかんAは窪橋の今季初みかんとなるべく、目映い未来と共に買い物袋へ入った。が、「甘すぎるねこれ普通のがいいよ普通のが」と言いたいことを言われ、台所に1週間ほど放置される憂き目にあう。


みかんAの後に入荷された大衆みかんBは、既に一袋が窪橋の腹に消えた。