名付けままならない

父が養子に出されることは産まれる前から決まっていたそうだ。詳しいことは知らないが、産まれたらすぐに育ての親(私の祖父母)に引き渡され、名前も祖父母が付ける手筈だったらしい。
ところが、産みの親が手放しがたく思ったのか、何か他に事情があったのか。父の引き渡しは当初の予定よりずれ込み、命名も産みの親がすることになった。
祖父母はそれが心残りだったのかもしれない。
初孫である私が産まれたとき、祖父母は私の命名権を欲しがった。祖父母が候補として挙げた名前は、私の両親の意向とはずいぶん離れたもので、……この話をしてくれた母の口振りから察するに、多かれ少なかれごたごたしたんだろう。みんなで話し合って名付けましょう、とはいかなかったようだ。ままならぬー。


母からこの話を聞いたのは、私がまだ学生の頃だ。名付ける側の気持ちも知らず、名付けられる側の傲慢さで、名付け親なんて誰でもいいのにな、誰にどう呼んでもらえるかの方が大切なのになあ、なんて呑気に思ったものだ。名前が通し番号のように機械的に振られるものだったなら、祖父母の喪失感も和らいだろうに、とも。
「14ひきのシリーズ」という絵本に出てくる10ひきのきょうだいの、上から順にいっくん、にっくん、さっちゃん、よっちゃん……という名前の緩さが、私には羨ましかった。名付けがこれくらい軽やかなものだったらよかったのに。祖父母も両親も気が楽だったろうに、と。


14ひきのひっこし (14ひきのシリーズ)

14ひきのひっこし (14ひきのシリーズ)

まあ、今考えれば、祖父母にとって命名権は「所有権を確認する手段」として重要だったのであって、私の意向なんか知ったこっちゃなかったろう。命名権がなければ他の方法で孫との繋がりの確かさを確認しにきただろうし、実際そういう場面は何度もあった。そのほとんどが、孫である私や妹にとってはどうでもいいことだった。私たちにとって彼らは揺るぎなく私たちの祖父母だけれど、私たちがそれを伝えたところで意味がなかったんだろうなあ。さみしい。
翻って、父を産んだ人たちにとっては父への命名が慰めになったのかもしれないと思うと、誰が名付け親でも当人にとってはどうでもいい、とは言えなくなり。……さみしいな。全くもってままならぬ。


さて、時は経て。そんな私が、名付ける側になる日がやってきた。
困るだろうなと思っていたけれど、案の定困っています。
思い入れのある名前をつけたくない、という思い入れが強すぎて考えられない!
命名が子を縛るのではないか、という不安に取り憑かれているのです。困った。
人の未来がそんなにヤワなはずないのにね。


さりとてテキトーにというわけにもいかず。子を孕む前は、命名辞典か何かをえいやっと捲って目ぇつむって指差したやつにしちゃえばいいじゃんね、などと気楽に構えていたのですが、実際にやってみたらそこまで吹っ切れていないことに気がつきました。命名は無作為なほど良いと長年考えていたはずなのに。ええい面倒臭い。わたし面倒臭い。何というままならなさだ。


こうなったらタカハシに任せてしまえーと思ったら、タカハシはタカハシで「こだわらない名前がいい」というこだわりが強すぎて考えがまとまらないらしく、隙あらば私に全権を委ねようとしてくる。


「名前、決めていいんだよ。君のネーミングセンスを全面的に信頼しているよ」
「君こそいい感じにバシッと決めてくれそうじゃないか。決めてくれよ決めろー」


てな感じに、お互いじりじりと間合いを詰めております。間合いを詰めはじめてから既に数ヶ月が経っている。泥仕合もいいところだ。オーディエンスに徹している両家両親もいい加減ハラハラしはじめた。ぐずぐずしていると腹から子が出てきてしまうぞ!


イムリミットまであと少し。
腹の子は順調です(近況報告)。