『悲しきアンコール・ワット』三留 理男

悲しきアンコール・ワット (集英社新書)

悲しきアンコール・ワット (集英社新書)


アンコール遺跡群にまつわる盗掘と密売のルポ。


◇◇◇◇◇


カンボジア旅行を目前に浮かれる自分に冷や水を浴びせようと思って読んだ。



文化財流出をめぐる問題は、様々な事情が複雑に絡み合っている。政治的にも文化的にも魅力的「すぎる」アンコールの文化財たち。その魅力が人々を惑わせ、今も遺跡を切り崩させている。なんて皮肉なんだろう。


ルポは、遺跡の「価値」に魅了されてきた人々の歴史をたどり、現在の密売事情へと続く。欲しい人がいなければ密売は成り立たない。買い求める人がいて、盗掘する人、それを運搬する人、売る人がいる。遺跡散逸に係わる様々な人々への取材を通して、密売の実態が浮き彫りになる。筆致はあくまで冷静だ。淡々と記される、取材先の「当事者」たちの罪悪感の薄さ、具体的な取引価格の生々しさ。もはや密売は産業として確立しているのだ。


この本が暴くのは、アンコールの神々が権力で引きずり回される姿、ずたぼろの規制をすり抜け賄賂とロンダリングの果てに「クリーンな骨董品」として日本の百貨店の棚に並ぶ、やるせない現実だ。


事情をしらない客には、遺跡を食いちらかしている後ろめたさはないだろう。むしろ、遺跡の「価値」を愛するからこそ大枚をはたいて買い求め、自室のどこかに大切に置いて無邪気に眺めたりするのだろう。なんだかそれは、悲しくゆがんだ片思いの情景にみえる。



そもそも、文化財が「あるべき場所」はどこなのか。学生の時、私の知人がこの問題を巡って激しく衝突したことがあった。一方はエジプトからの帰国子女で、もう一方はイギリスからの帰国子女。争点は大英博物館所蔵のエジプト文明文化財だった。
文化財は、エジプトに返還されるべきか、否か。


結論は出ず、最後は感情的な怒鳴り合いになった。
一方は、イギリスはエジプトの財産を盗んだ強盗だ、無償で返還するべきだ、となじり、もう一方は、盗賊だらけの馬鹿共の手から人類の財産を守ったのだ、所有し続けるのは当然だと噛みついた。
私は、ただ呆然と見ていただけだった。
博物館の「権威」を揺るがせる意見に触れたのは初めてだったのだ。


正しい手順を踏んで博物館や美術館に収められたはずの文化財たち。いや、「正しい」って、誰が判断したんだ? 法や政治的な問題をクリアしていれば済む話なのか? たとえ国際条例や法律があっても、機能していなければ合法であることに意味はない。政治的な思惑は、遺跡の保護とは観点が違う。
文化財を守るって、いったいどういうことなんだ。
私は未だにうまく理解できない。



文化財があるべき場所は、遠い先進国の博物館のガラスケースの中なのか、愛好家の管理の行き届いた金庫の中か。


筆者の三留さんは、違う、と言う。


「その地から出土した物は、
基本的にはその地に戻すべきではないだろうか。」(161頁)


仏像は寺に、
ギリシャ彫刻はアテネの山に、
アンコールの文化財は、アンコールの森のなかに。


その情景を守ろうとしている人たちの闘いぶりを伝えて、ルポは終わる。



三留さんの言うその景色は、私にも、美しくて幸せなものに映った。