マイケル・ジャクソンさんのおもいで


「マイケルは真っ白ねぇ」と母は言う。「テレビで○○さんが言ってたけどね、耳の穴の中まで真っ白なんですって」「移植手術で白くなれるのねえ」「一体幾らかけたのかしら」
マイケルの話をすると、母はいつも「○○さんが耳の穴まで白かったって言ってたわ」と繰り返す。お母さんそれ何度も聞いたよ、って指摘すると、そうだったかしら、と首をかしげて一瞬後には忘れている。今度会う時も同じことを言うだろう。



高校のとき、クラスメイトが「マイケルのコンサートを見てきた」と嬉しそうに話した。本格的にダンスを学んでいる子だった。ちょっと背伸びをしたい年頃の私は「マイケルなんて…」って思っていたから「へー」「ふーん」と適当に相槌を打った。彼女は悔しそうな顔をして、マイケルは皆が思っているような人じゃないと言った。窪橋だって見ればわかる。マイケルのパフォーマンスはいつだって最高だ。それから彼女は、昨日見たマイケルがどんなに最高だったかを熱っぽく語った。すごかった、本当にすごかったんだ。私もあんなふうに踊れるようになりたい。彼女はうっとりと頬を染めた。そっか。私はちょっと反省した。今度ちゃんと聴いてみるよ。後日、図書館でジャクソン5を借りた。



レンタルショップでバイトをしていたある日の深夜、千鳥足のおっさんが店に入ってきた。新譜コーナーをしばらく見たあと、フラメンコの踊り子みたいに耳の脇で手を打ち鳴らして私を呼んだ。「姉ちゃん、無いよ、マイケルが」。ちょうどインヴィンシブルが出たばかりの頃だった。レコード会社の事情によりレンタル開始は数ヶ月後です、とご説明申し上げてレジに戻った。また手をたたく音がした。おっさんは納得していなかった。「おかしい、あるはずだ」「俺は新宿でマイケルのポスターを見た」「マイケルの顔が、『バーン』と写ってるヤツだ」いやだからですね、と私はさっきの説明をもう一度慇懃に繰り返してレジに戻った。数分後にまた手をたたく音。私が行くまで手を叩き続け、フラメンコおっさんはなおも言いつのる。「白っぽいジャケットなんだ」「マイケルの顔が『バーン』とあるんだ」両手の親指と人差し指で大きな四角を作って私に突きつける。マイケルの顔が『バーン』だ。わかるか。私は楽しくなってきた。わかります、マイケルの顔が『バーン』ですね。私も指で四角を作って見せたらおっさんはものすごく嬉しそうに頷いた。「そうだ『バーン』だ」。


「でっかくこう、『バーン』だ、な。」
「はい、マイケルの顔が『バーン』、と。」
「そうだそうだ、マイケルが『バーン』だ! うはははは」
「あははははははは」
「……無いのか」
「生憎ですが」
「そうか、貸し出し中か…」


ちげーよおっさん、と言う代わりに「またどうぞ」と頭を下げると、おっさんは「おう」と片手をあげて、来た時と同じように千鳥足で帰っていった。



私にとってのマイケルは、クラスメイトが心酔したダンサーで、知らないおっさんがでろでろに酔いながらも聴きたがった歌手で、洋楽を滅多に聴かない母が顔と名前を覚えている数少ないアーティストだ。
クラスメイトはダンサーになれただろうか。
フラメンコのおっさんはCDを聴けただろうか。


母は、マイケルの名前を出せばまた「耳の穴まで真っ白」の話をするはずだ。
こんど私はトライセラトップスの和田唱さんの話を教えてあげるつもりだから、母があの話をするのは次が最後になるだろう。


インヴィンシブル

インヴィンシブル